素晴らしい道を見つけた というか昔あてどなく歩いていたときよく通った。あの時は今より物心がついていなかったし、困難だった。山に向かってひたすら漕いでるときすごく幸せだった。こんな道だとは思っていなかった。やっぱり生きてみるものだ。
こんなこともじき思えなくなり、何事にも憎しみがまとわりつくようになる。そしてまた同じようにささいなことに感謝を捧げられるようになる。繰り返すだけならいいが、労働の場で機能するためには気分を押さえつけないといけない。それが耐えがたい苦痛になる。薬は向いてる人とそうでない人がいる。私は後者で、インテンシブなサイコセラピーにも向いていない。
ほんとは病気じゃなくて悪い出会いってやつなんだよね なんのタグもないことにも傷つくんだけど、私が私のことを知ってればいいじゃないかとも思う。
誰にでもそれぞれの苦労がある。みんなしんどいという言葉を今まで抑圧の道具として突きつけられてきたからそう思えなかったけど、今は少しはわかる。そういう意味で、別に特別な苦労を自分はしてるわけではない。なによりグラデーションの性質のあることだから、わざわざ誰かを敵にしなくてもいいのだ。
優しいだけの人も悪意だけの人もいない。自分が変われば相手も変わるというのはスピらない範囲の身も蓋もない理由においては本当だ。そういう成り立ちで得られる良さを自分の本質の表現が含まれないあり方でしか得られないことに悲しみのもとがある。
三木清『人生論ノート』の「幸福について」のさいごらへんを暗唱できるようにしてあったのを今日思い出した。「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと(中略)幸福は常に外に現れる。歌わぬ詩人というものが真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて、他の人を幸福にするものが真の幸福である」
打った後に確認したらおのずからが抜けてたりしたのでなおした。読み直してて前には目に止まらなかったとこをおっと思った。虚栄についてとか読み直そう。
何かを読みながらあれのことじゃんとか思うのは、新しいものに本当に出会えないやり方かもしれないが、それでも楽しみがある。「希望について」の随所に好きなものの本質を表現する言葉を見出してニコニコしてしまう。
